スポーツ観戦が娯楽として定着してから久しくなりますが、数々の名勝負があったという歴史がある半面、多くの人が選手寿命を全うして引退しているのも事実です。特に平尾誠二のような有名選手は、若い頃を振り返り懐かしむ人が多いと思うので、この記事でそれらを今一度振り返ってみようと思います。名言や山中伸弥との関係も紹介しているので、平尾誠二の名前を知らない人もぜひご覧になってください。
小学生から中学生活を振り返る
小学生の頃の平尾誠二は野球少年でしたが、京都市立陶化中学校に入って下積みばかりをやらせられて飽き飽きしていたそうです。そんな中同じグラウンドで楽しそうにしていたのがラグビー部で、先生が率先して和気あいあいとラグビーをする空気を作っていたため、羨ましくて入部届を出したとインタビューで応えていました。そんなスポーツに対する意欲を感じていたのか、両親も平尾誠二からラグビースパイクをお願いされたときは快く購入したそうです。一方で平尾誠二は、どうせ無理だろうと思ってお願いしていたので、買ってもらえたときの喜びは、ラグビー選手になった今でも一番嬉しいことだと応えています。そんな喜びが原動力になったのか、平尾誠二は中学3年生の頃に京都府秋季大会で準優勝しています。
高校入学の切っ掛けを振り返る
平尾誠二が高校の進学先を決めた切っ掛けは、中学3年生のときに準優勝した京都府秋季大会です。この時の活躍を当時ラグビーの監督をしていた山口良治が見ており、直接平尾誠二の自宅へ行き伏見工業高校へ入学しないかと誘われていたことが分かっています。しかし、当時の平尾誠二は特待生として花園高等学校への入学が決まろうとしていたので、両親からも特待生のほうがいいのではと説得されたそうです。それでも山口良治から誘われたときのことが忘れられず、親の説得を振り切って伏見工業高校へ入学しています。
ですが、早々に平尾誠二は悔しい思いをすることになります。なんと京都府大会の決勝で、特待生として入学予定だった花園高等学校との試合に負けてしまったんです。あまりにも悔しくて準優勝トロフィーを捨ててしまった当時のことを、平尾誠二は赤裸々に語っています。そんな悔しさをバネに、高校三年生になった平尾誠二は、主将としてチームを率いて全国大会優勝を飾っています。この優勝を切っ掛けに伏見工業高校は、ラグビーの名門校として知られるようになりました。
大学生のころを振り返ってみた
平尾誠二は伏見工業高校卒業後の1981年、同志社大学に入学しています。平尾誠二が在籍していたころの同志社大学は、ラグビー部の黄金期とも言われており、大学選手権3連覇を達成しています。また、関西大学ラグビーリーグに至っては、1976年から1984年まで9連覇を飾っており、益々ラグビー強豪大学としての名を世間に知らしめる切っ掛けになっています。そんなラグビー環境に恵まれ成績を残していた平尾誠二に日本代表招集の声が掛からないはずもなく、1982年19歳4か月の史上最年少記録を持って日本代表選出を勝ち取りました。
大学卒業後の進路について
大学ラグビーでの活躍で、多くの企業から声の掛かっていた平尾誠二ですが、その声に応えることはありませんでした。理由は本人の希望で大学卒業後はデザインの勉強がしたいからと、自分のラグビーの実力が世界でどの程度通用するのか知りたかったからです。そんな思いからイギリスのリッチモンドへラグビー留学するのですが、突如日本代表候補選手から除外の通知を受け取ることになります。理由は、留学前にファッション雑誌の取材記事が公開されたからで、現代のアマチュア規定ともルールが違うことから、平尾誠二にも違反の意識は無かったそうです。しかも、アマチュア資格は国際的に効力のあるものと知らされ、イギリスでラグビーができなくなった平尾誠二は日本への帰国を余儀なくされています。行き場の無くなった平尾誠二は、イギリスで知り合った当時神戸製鋼の専務である亀高素吉に誘われ神戸製鋼へ入社、社会人ラグビー選手として7連覇の大きな立役者となっています。
平尾誠二がラグビーに残した名言
1997年頃からコーチとしての才能にも注目され始めた平尾誠二は、数々の名言を残しているラグビー監督としても有名です。特に1997年の結成から僅か2年で第4回パシフィック・リム選手権優勝を決めた平尾ジャパンは有名で、2000年に代表監督を辞任するまで、ワールドカップアジア予選優勝など、他にも輝かしい成績を残しています。そんな素晴らしい監督が選手達にどんな名言を残してきたのか以下の見出しでご覧いただきましょう。
言葉の効果に関する名言
平尾誠二は、起こるときも褒めるときもその言葉にどれだけの効果を持たせるかは、リーダー次第との名言を残しています。確かにただ怒ったり褒めたりするだけでは感情を他人にぶつけているだけで、その言葉にどういった意味や効果があるのかを相手に伝えることができません。しかし、自分の意図やチームのあり方をリーダーとしてはっきりさせると、怒られたり褒められたりした側も今後の目的がはっきりしてやりやすくなりますよね。
試合や練習の成果に関する名言
平尾誠二は練習や試合に関する心得に、つまらないものはいくらやってもつまらないとの名言を残しています。確かにつらい練習や負ける試合もありますが、負けたときはラグビーにはまだ上の限界があると前向きに捉えることで次に進む原動力にすることが可能です。また、平尾誠二はリーダーや監督が怒る環境は良くないと考えています。これは、怒られるまで行動を起こさないチームに問題があるとして、選手達に奮起を促すために残した名言として知られています。同じような名言を元日本代表・五郎丸も残しているので、スポーツにとって自分が原動力となる行動がいかに大事かを伝えてくれています。
山中伸弥の関係エピソードを紹介
平尾誠二と山中伸弥は家族ぐるみで親交のある深い関係です。切っ掛けは2人が雑誌の取材で対談を受けたことで、すぐに意気投合したそうです。出会ったのが平尾誠二が癌で亡くなる前の数年だったことを本人も悔やんでいたようですが、それでも一緒に食事をした時間はかけがえのないものだとインタビューで語っていました。そんな山中伸弥が語る一番の思い出は、対談後すぐに一緒にお酒を飲みゴルフまで一緒に行くようになったことだそうです。この時は既にメールアドレスを交換するまでの関係になっており、2人がいかにお互いを大事にしていたのかが分かるエピソードとしてラグビーファンから認知されています。そんな山中伸弥ですが、平尾誠二の死後すぐにお墓参りには行かなかったそうです。これは関係の深いラグビー仲間との墓参りを優先させてあげるためで、仲が良かったとは言えすぐに行くのは違うと墓参りをあえて遅らせていたという優しいエピソードがあります。
まとめ
平尾誠二はラグビー選手として、多くの名言や思い出を残してくれた有名選手です。後に日本代表として活躍する五郎丸などにも影響を及ぼし、人柄の良さは他ジャンルの人間を魅了するほどでした。そんな平尾誠二ですが、2016年多くのラグビーファンに惜しまれながら病で亡くなられています。それでも監督として輝かしい記録を残したことや、選手として連覇の記録を築いたことは決して無くなりません。これからの新しいラグビー選手達にも平尾誠二の意思が継がれ、さらに日本ラグビーを発展させる切っ掛けになるといいなと思いました。










